ラマン分光法は、最も有望な化学分析技術の一つです。これは、ラマン分光法が持つ固有の指紋特性により、研究対象系内に存在する様々な化学種の同定を可能にするためです。
感度の低さが検出手法としての利用を制限してきましたが、表面増強ラマン散乱(SERS)効果により、その分析用途における有効性は向上しています。ラマン信号の増強は、多くのセンシング応用の発展を可能にしてきました。特に、638 nmレーザーが供給するエネルギーは、サンプル損傷のリスクと蛍光発生との間で適切なバランスを保つため、生物学的アプリケーションの多くで広く用いられています。
本アプリケーションノートでは、概念実証として、アルデヒド脱水素酵素およびシトクロムc をラマン分光電気化学法により解析しています。
測定は、SPELEC RAMAN 638装置(638 nmレーザー)、レーザー波長に対応したラマンプローブ、スクリーン印刷電極用の分光電気化学セル(図1a)および従来型電極用のセル(図1b)を用いて実施しました。
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銀スクリーン印刷電極(Ag SPE、C013)は、その電気化学的活性化特性からSERS基板として用いました。さらに、従来の銀作用電極(6.09395.044)も、鋼(6.0343.110)およびAg/AgCl(6.0728.120)対電極および参照電極と組み合わせてSERS基板として用いました。
SPELEC RAMAN 638は、分光電気化学情報の取得が可能で、収集データの適切な処理や解析を行うためのツールを備えた専用ソフトウェア「DropView SPELEC」によりコントロールしました。本実験で用いたすべてのハードウェアおよびソフトウェアは、表1にまとめています。
表 1. ハードウェアおよびソフトウェアの概要
| 構成 | 部品番号等 |
|---|---|
装置 |
SPELECRAMAN638 |
| プローブ | RAMANPROBE638 |
| SPE用ラマン分光電気化学セル | RAMANCELL |
| 従来型電極用ラマン分光電気化学セル | RAMANCELL-C |
| シルバーSPE | C013 |
| SPE用接続ケーブル | CAST |
| 銀作用電極 | 6.09395.044 |
| スチール対電極 | 6.0343.110 |
| Ag/AgCl参照電極 | 6.0728.120 |
| 従来型電極用接続ケーブル | CABSTAT |
| ソフトウェア | DropView SPELEC |
水溶液中のアルデヒド脱水素酵素(ALDH)の検出には、ラマン分光電気化学法が用いられました。電気化学的SERS(EC-SERS)プロトコルでは、1回の実験で2つのステップ、すなわちAg SPEのSERS特性の電気化学的活性化と、その後のサンプルの分光検出を行います。
電気化学的活性化は、まず銀表面の初期酸化を生じさせるために電位を +0.50 V までスキャンし、その後 -0.60 V まで還元してSERS効果を示す銀ナノ構造体を生成するプロセスで構成されます。分光電気化学実験は、検出対象となる分析物(本例ではALDH)の存在下で行われますが、銀SERS基板の生成を促進するために、塩化物イオンも溶液中に存在させます[1]。
実験全体にわたるラマンバンドの変化を評価し、光学的検出を最適化するために、SPELEC RAMAN 638はオペランドモードで測定を行います。この方法により、スペクトルは特定の電位だけでなく、実験全体を通じて連続的に記録されます。
図2aはALDHのサイクリックボルタモグラムを示し、図2bはALDHの特徴的なラマンスペクトルを示しています。この結果は、0.1 mol/L KCl水溶液中の1 mg/mL ALDHについて得られました。スペクトルの取得は連続的に行われましたが、図2bのラマンスペクトルは-0.50 Vで記録しました。この電位でラマン強度が最も高くなるためです。
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Ag SPE を簡単に活性化するための提案された EC-SERS 測定手順とラマン分光電気化学装置 (638 nm レーザー) を組み合わせることで、これまで文献で報告されていなかった溶液中の ALDH の特性評価のための迅速かつ興味深い代替手段が提供されます。
従来型電極も、シトクロムcなどのさまざまな酵素のEC-SERS検出に用いました。このタイプの電極に対する測定手順は、SPEsの場合と同じ手順に従います。まず表面の初期酸化を行い、その後還元してSERS効果を示す銀ナノ構造体を生成します。また、使用する電極に応じて電位ウィンドウは調整されました。本実験では、0.1 mol/L KCl水溶液中の0.1 mg/mL シトクロムcの電位を +0.80 V から -0.80 V までスキャンすることで、最良の測定結果が得られました。最も強いラマン強度を示すスペクトル(図3)は、-0.70 V で記録されました。
シトクロムcの各ラマンバンドの振動モードの割り当ては、表2に示しています。
表 2. シトクロムcの振動モードの割り当て [2,3].
| シトクロムcのSERSバンド [cm-1] | 割り当て |
|---|---|
| 713 | ヘム呼吸振動 |
| 969 | 非対称ピロール変形振動 |
| 1123 | Cβ-C1 |
| 1220 | 非対称ピロール半環振動 |
| 1358 | 対称ピロール半環振動 |
| 1426 | ピロール1/4環振動 |
| 1528 | CαCm, CαN |
| 1578 | CβCβ, CαCm, |
| 1604 | CαCm, CαCβ |
シトクロムcは還元型と酸化型の可逆変換可能な形で存在することから、Feイオンの酸化状態は特徴的なラマンバンドの位置に基づいて決定することができます。還元型シトクロムcは1604 cm⁻¹付近に1本のラマンバンドを示すのに対し、酸化型は1636 cm⁻¹付近にシフトしたバンドを示します。ラマンスペクトル(図3)および振動モードの割り当て(表2)に基づくと、EC-SERS実験中に分析対象の還元型が検出されています。本実験により、シトクロムcを検出するとともに、その酸化状態を特徴付けることが可能であることが示されました。
ラマン分光電気化学法は、幅広い系の解析において優れた結果を提供するマルチレスポンス手法です。特に638 nmレーザーの場合、この波長で供給されるエネルギーは生物学的応用に適しています。
本実験では、さまざまな銀電極(スクリーン印刷電極および従来型電極)のSERS特性を活性化するために提案された電気化学測定手順により、ラマン強度を増強する簡便かつ迅速な手法を提案しました。このラマン強度の増強により、溶液中に存在するさまざまな分子の検出が可能となります。本実験では、これまでに報告のなかったALDHの諮問領域ラマンバンドを明確に定義しました。また、シトクロムcの解析においては、特徴的なラマンバンドに加えて、Feイオンの酸化還元状態の特徴付けも行いました。
- Martín-Yerga, D.; Pérez-Junquera, A.; González-García, M. B.; et al. Quantitative Raman Spectroelectrochemistry Using Silver Screen-Printed Electrodes. Electrochimica Acta 2018, 264, 183–190. https://doi.org/10.1016/j.electacta.2018.01.060.
- Brazhe, N. A.; Evlyukhin, A. B.; Goodilin, E. A.; et al. Probing Cytochrome c in Living Mitochondria with Surface-Enhanced Raman Spectroscopy. Sci Rep 2015, 5 (1), 13793. https://doi.org/10.1038/srep13793.
- Hu, S.; Morris, I. K.; Singh, J. P.; Complete Assignment of Cytochrome c Resonance Raman Spectra via Enzymic Reconstitution with Isotopically Labeled Hemes. J. Am. Chem. Soc. 1993, 115 (26), 12446–12458. https://doi.org/10.1021/ja00079a028.